いのちの継承
−会津の食から−
鈴木真也
●食から振り返る歴史●
vol.1 「飢餓」
vol.2 生き延びるための飽くなき挑戦
vol.3 下級武士たちの 食生活
vol.4 北前船の隆盛期(1)
vol.5 北前船の隆盛期(2)
vol.6 松尾の梨
vol.7 豆腐
vol.8 鯉
vol.9 芋煮
vol.10 鮭
vol.11 鯛
vol.12 鶴
vol.13 武士料理の料理人の流れを汲む人
vol.14 鮒
vol.15 こづゆ(重)
vol.16 器
vol.17 小笠原流
vol.18 日本奥地紀行
vol.19 海鼠(なまこ)
vol.20 蕎麦(麺食)
vol.21 婚礼料理
vol.22 消えた料理
vol.23 卵
vol.24 精進料理-エゴの分布-
vol.25 幕末検見日記
vol.26 東遊雑記
vol.27 精進料理 その1
vol.28 奥会津の精進料理 
その1
vol.29 精進料理 その2
vol.30 江戸前の鮨 登場
vol.31 会津武家料理復元記
vol.32 会津の食を訪ね歩いて<栃けえ>
vol.33 山椒ゆべし
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電子出版
新聞掲載コラム
 

vol.11

 

 市内旧家の文化文政期以後の婚礼献立や祝い事の献立を見ると、かなり高級品であるはずの海産物をふんだんに使用していることから、商人たちの経済的成長ぶりを垣間見ることが出来る。。藩庁が出した倹約令などどこ吹く風で、無視しているかのようでもある。

 鯛、甘ダイ、荒、平目などは、いずれも鱠や焼き魚などに使用されている。昔は、浜で塩をした魚を荒縄でぐるぐる巻きにして、内陸部へ運んだといわれている。新巻鮭が塩漬けの代表のように思われがちだが、昔は様々な魚がこのようにして運ばれた。

 『今昔物語』の中にも、馬の荷駄から鯛の荒巻を掠め取る泥棒の話があるが、中世の頃から既にこのような運搬方法が盛んだった。

 さて、この塩の効いた鯛。一体どのようにして料理したのであろうか?

 宝暦の巡見使が会津へ来訪した折、三島町大谷集落の二瓶家へ投宿したが、この折の巡見使の供応献立に使われている。若松表まで早馬にて買いに行かせたことも記録に見える。

 それにしても、江戸を離れた深山幽谷の地で鯛の料理にお目にかかるとは、御巡見使様も面くらったことであろう。江戸前の魚に親しむ機会も多い御巡見使様。今更この山の中で鯛でもあるまいと思ったのか、一箸も口にしなかったとある。

 村役大いに慌て、精を込めた硯蓋(前菜のような酒の肴)を出してなんとか面目を保ったという。

 奥会津の人々にとっては、鯛は夢のような魚であったろう。塩魚も真水で戻すと味が抜けてしまうが、浸透圧を利用して薄い塩水で塩を抜くと、余り味を損なわずにすむ。

 『家政実記』などにも、進物のなかに塩鯛が度々登場する。現在冷蔵技術が進歩し塩物の価値は急落したが、塩をした鯛を当時と同じ状態にして試食してみて、その旨さに驚いた。それは、私たちが忘れてしまった味でもある。塩が熟れた味とでも云うべきか。料理の復元は再発見の感動に満ちている。

 また旧家の献立には浜焼きの鯛が多く登場する。新潟あたりで焼いて運んだのであろう。当事このように流通業はひとつの立派な産業として確立していたが、なかなかの重労働だったらしく、運送業に携わる博労たちの駄賃を上げてくれるように嘆願した記録もある。

 驚いたことに、文政以後になると太平洋側から生魚と思われるものを運んだ記録がみられる。夜間に氷詰にして運んだようだが、仕事がきつく、今でいうストライキのような騒動に発展したという記録である。夜間、猪苗代湖を利用した水運で運ばれたらしく、船問屋の荷受帳からあきらかになった。

 こうしたことから、文政期頃はかなり生活レベルが向上したのではないかと推測される。

 


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